BFN.49

2022/05/01

札幌に戻って翌々日の検査では、肝臓の数値が著しく悪くなっていた。
「包み隠さず言うと…こんなの初めてっていうくらい調子悪いです。」
「息苦しくて…何か躰の中で起こってるんだろうね、浮腫も出てきました。」

この頃から、ひとみちゃんと私の間で毎日続いていたLINEのやりとりが、少しずつ減っていった。
制作作業についての話がほぼ終わっていたせいもあるが、一番の理由は、今までのような頻繁なやりとりが彼女を煩わせるのではないかと思い、こちらから送るのを控えたからだ。
良いはずがないと知りながらも尋ねずにはいられなかったのだが、毎度枕詞のように「体調はどう?」と訊くのも辛くなっていた。
どんなにしんどくても返信してくることがわかっていたから、尚更だった。

それでも、「返信不要」として1日おきくらいには連絡し、その日のうちに返信も来ていたが、ある日、丸一日既読がつかないことがあった。調子が悪いのだろうなと思ってはいたが、2日経ち、3日目になると、さすがに不安が募り、アキに連絡した。
やはり、病状はかなり悪いということだった。ほとんど食べられなくなっているという。入院して欲しいと思っているが、本人はまだ大丈夫、と言っているそうだ。
アキは大変だっただろう。大切な人が日毎に弱っていく姿を、なす術もなく見守るしかないのだ。
どんなに辛く、やりきれないことか。

私の中では、会いに行きたい気持ちと行かない方がいいのかという気持ちが、せめぎ合っていた。
そもそも、自分が行って何ができるというのか。会いたいというのはこちらの我儘なのではないか。ひとみちゃんを心身共に疲弊させるだけではないのか。
何より、ひとみちゃん自身が、病床に着いている自分を見せたくないと思っているかもしれない。
相変わらずコロナが猛威を振るっていたことも相まって、私はなかなか動けずにいた。
当時、彼女と親しい人達の中には、似たような思いを抱える人も多かったのではないかと思う。

4/19、「連絡なかなか入れられずゴメンナサイ」とLINEがあった。
今日から緩和チームにお世話になるということ、一週間でも作業を続けるために頑張るということ。
入院だけは決してしたくないから、と言っていた。
コロナのせいで面会が規制されていた頃だから、この時もし入院していたら、私はおそらく2度と彼女に会う事はできなかっただろう。
翌日、電話で話す約束をしたが、約束の時間になって、「貧血の数値がヤバくて口が回らない」とLINEが来た。「明日、輸血してから電話します!」とあったが、翌日も、話せる状態にはならなかった。

その後も、回数は減ったが、LINEでのやり取りは続いていた。
輸血と輸液で、なんとか維持している状態が続いているようだった。麻薬の量も増えていた。
アキからの報告でも病状が更に進行していることは承知しており、重苦しい日々が続いていたが、4月の終り頃には、ひとみちゃんから「もう一度会えるといいなぁ」という言葉が出るようになった。
5月になると、ついに「中頃に、葉子ちゃんとホリエさんに会って色々とお話したいなと思ってます」という連絡が来た。ようやく、会いに行っていいのだと思えた。

そして、5/17、ホリエさんと私は札幌へ飛んだ。

to be continued…

ヒトミィク・プロジェクト 広本 葉子

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Comments

  1. 安沢 純一 より:

    初めて会ったのが34年前、二十歳の時 そこから僕の音楽人生が変わりました!
    ひとみさん ありがとう!

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