BFN.17

2021/09/20

 

これまで、ひとみちゃんの体調にはもちろん波があったし、それと共にその精神状態にも浮き沈みはあったが、この年の3月の終わりは、彼女にとって、とても辛い時期だったように思う。

芸森での合宿レコーディング以降、ひとみちゃんは意欲的に歌入れを続けており、3月中旬には、夏にライヴをやろうという話が出た。
以前は、絶対ムリだと言っていたのだが、歌入れを何曲もこなし、自信がついたのだろう。
2、3曲なら、いける!と思ったようだ。

このライヴ企画=昔からの仲間との音楽イベントを、ひとみちゃんは、それは楽しみにしていた。
Pトラック、シエッタガーリア、ソウルサバイバーズ、ピップエレキバンドといった、札幌で同時期に活躍していたバンドに加え、もちろんプロジェクトメンバーも参加、東京で活躍するミンクスや久保田ヨーコにも声をかけようかな、と嬉しそうに話していた。
数日後には、早くも、日程や小屋を決定したとの連絡があった。7月半ばだという。

両手を挙げて賛成はできなかった。コロナの先行きが見えていなかったからである。
もう少し様子を見た方がいいのでは、と言ったのだが、「声が出るうちにやりたい」というひとみちゃんに、それ以上は言えなかった。甘いとは思ったが、できるなら、やらせてあげたかった。
だが、同じ懸念を抱くスタッフは当然他にもいて、私よりずっと毅然とした態度で意見してくれたようだ。結局、この企画は秋に延期しようということになって、胸を撫で下ろした。

一方、4月後半に、歌録りの為に上京するという話も出ており、これには私も強く反対した。
万が一のことがあったら、悔やんでも悔やみきれないことになる。
当時、東京はまだ、「自粛してください」という何だか生ぬるい要請しか出ていなかったが、緊急事態宣言が出るのも時間の問題、という状況だったのだ。しばし押し問答になったが、埒があかない。
マイクがどうの、スケジュールがどうのと理屈をつけてくるが、要するに「東京に行きたい!」のだ。
こうなると、倉本ひとみは厄介な女であり、ましてや、こちらには、できるだけ彼女の思い通りにさせてやりたい、という気持ちのハンデがある。「危険は承知のうえ!」などと言われたら、説得のしようもない。うーん。まぁ、まだ時間もあるし、とりあえず、うやむやにしとこう。

と、姑息なことを考えていたその夜遅く、ひとみちゃんからLINEが入る。
「ショウジから電話があって、、、葉子ちゃん同様、大反対。私も少し怖くなってきた。やっぱ、札幌でやるべきかなぁ。」
さすが、ショウジ! 偉いぞ、ショウジ!と心の中で快哉を叫びつつ、「残念だけど、その方が安心だよ」と言っておく。ここでも、頼もしい仲間のおかげで、胸を撫で下ろすことができた。

この頃、ひとみちゃんは、自分の作品の受け皿として、休眠させていた会社 Wakka Musicを再開することにも心血を注いでいた。音楽制作とはまた別の事務的な作業には、ストレスも多かったようだ。
それを始めとして、もちろん病気のこと、その他プライベートなことで、当時の彼女は様々なストレスを抱えていた。ライヴの延期や上京を断念せざるを得なかったことも、悔しかっただろう。
志村けんさんが亡くなったことにも、大きなショックを受けていた。この訃報には、日本中が驚き悲しんだが、ひとみちゃんの受けたショックは、我々とはまた少しレベルが違ったようだ。
死に直面している身として、特別に感ずるところがあったのかもしれない。

そんな、たぶん精神的に少し参っていた頃、前の週に行われたCTの検査結果が出た。

 

 

to be continued…

ヒトミィク・プロジェクト 広本 葉子

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